長島 一向 一揆。 長島一揆とは

長島一向一揆 願證寺

信長は京へ上る前年の永禄10年(1567)から北勢に侵入し、北勢四八家といわれた諸侍たちを降伏させ、翌11年には神戸・関・長野の三氏を勢力下に収めました。 信長側もこれを飲んだので、降伏した者たち(きっと安心してる)は舟に乗ってこのまま退去……しようとしたとき、信長軍は一揆方に対して鉄砲を乱射し、川中に切り捨てたのです! うっそー! 許すと見せかけて、この仕打ち。 信長はこれ以上戦果のあがらない攻撃を続けていても意味がないと判断し、 すぐに撤退を開始。 最大で100000人以上も参加したこの一揆は、3度にも渡る 信長との戦いにより鎮圧。 河内一郡は二の江の坊主、服部左京進押領して御手に属さず(『信長公記』) 海西郡は二の江の坊主と服部左京進が押さえており、信長の手に属していなかったとあります。 (柴田勝家像 出典:Wikipedia) ここで、美濃三人衆(みのさんにんしゅう)の一人である、氏家卜全(うじいえぼくぜん)が傷を負った柴田勝家の代わりに軍勢をまとめるも、戦死します。 しかし弟の富樫幸千代は、西軍の山名宗全のもとにつき、兄弟で争うことになったのです。

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長島一揆とは

織田方も油断したのか、この捨て身の反撃に 「織田信忠(信長嫡男)隊」が崩され、信長兄の 「織田信広」や弟の 「秀成」「信次」「信成」「信昌」など、織田一族が討たれ、約1000人ほどの討死者が出ました。 ついで将軍の失政を責め,73年 天正1 ついに幕府を倒し,宿敵浅井・朝倉両氏を滅ぼし,翌年伊勢長島のを鎮圧,75年には三河に武田勝頼の精鋭を破って鉄砲隊の威力を示し,また丹波・丹後の征服を開始,8月越前の一向一揆を鎮定し,柴田勝家ら直属部将を分封,国掟を与えて専制支配の姿勢を明らかにした。 5月16日にはひとまず軍を退こうとした。 桑名市:• さらに天候の悪化も相まって、織田軍はやっとの思いで岐阜へと帰還するに至りました。

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【長島一向一揆とは】簡単にわかりやすく解説!!発生の背景や内容・その後など

信長は元亀2年5月、第1回目の長島攻撃を行いましたが、長島方がゲリラ戦法をとったため、信長軍は混乱して敗北しました。 出陣以来、要請していた船の調達が十分にできなかったのです。 一向一揆とは、権力に対する抵抗運動、今でいう過激なデモ活動と似ています。 幾筋にも枝分かれした木曽川の流れによって陸地から隔絶された地域で、伊勢国にあったが、『』に「尾州河内長島」とあるように尾張国とも認識されていた。

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【長島一向一揆とは】簡単にわかりやすく解説!!発生の背景や内容・その後など

天下統一を目指すも,元亀1 70 年の長島,天正3 75 年の越前,同5年の雑賀 さいが などの一向一揆と戦った。

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見て歩く日本の城と史跡ー三重県桑名市(長島一向一揆)

過去二度大敗を喫し、さらには一族・家臣を数多く討たれ、この時の信長の決意は並々ならぬものだったようです。 訪問時、たまたま通りかかった地元の方にお伺いしたお話だと、その向かいにある川は堀跡にあたるそうです(これは間違いないでしょう)。 1465年(寛正6)の近江 おうみ 金森一揆 かながもりいっき が最初で、1580年(天正8)の石山本願寺の陥落を最後とするが、一揆の性格により3段階に分けて把握できる。 「の変」で信長が斃れると、次男信雄が継ぎ、その後様々な武将が引き継いだ長島城ですが、徳川幕府4代将軍の家綱親族の増山正弥(まさみつ)が入城。 揖斐川岸での壮絶な殺し合いの末、織田信次(叔父)・信広(庶兄)・秀成(弟)・信成(いとこ)といった信長の一族の他、馬廻り衆の荒川新八郎など、信長方にも多くの戦死者が出てしまいます。 西の賀鳥方面 かとり:愛知県・弥富町 からは佐久間信盛や柴田勝家・稲葉一鉄・蜂屋頼隆ら尾張・美濃衆中心の軍が攻めかかります。 その一向一揆こそ1563年に勃発することになる三河一向一揆でした。

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一向一揆とは

陸攻め、海攻め、回りの四方からの織田軍の猛攻を受けた一揆衆の各砦は次々と落とされ、じわりじわりと包囲を縮められます。

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